弁護士 宮本 督
エッセイ:to be a Rock and not to Roll
もの忘れ
このコーナー、3年以上ぶりの更新になります。皆さま、大変ご無沙汰しておりました。
こういうのって書かないことが常態化すると、再び書き始めるのって、けっこう難しいのですが、少しは楽しみにしてくれている人もいるらしいので、ときどき書いてみることにします。
少し前の新聞記事。2015~21年で最も多い日本人の死因は認知症だったという研究発表を目にしました。認知症そのものが死因となることはほぼないと思っていましたが、認知症は、身体機能の低下や免疫力の低下による呼吸器感染、循環器疾患を引き起こすということのようです。同世代(50代半ばです)の間で、この記事のことが話題になり、荻原浩『明日の記憶』を勧められました。若年性アルツハイマー症をテーマにした小説とのこと。
ネット書店で検索したところ、私は既に2017年にこの本を電子書籍で購入していました。んで、電子書籍端末の方を確認すると、最後まで読み終えた痕跡があります。10年くらい前から作っている個人的な読書メモの方にも記録が残っていました。しかし、どんな話しだったか、まったく記憶にない…。
というわけで、読み始めてみました。読み進めれば、思い出すはずです。
主人公は50歳の男性。広告代理店の幹部社員で、仕事に追われながら円満な家庭生活も送っていたのですが、その彼の記憶が徐々に失われていく様子が切々と描かれます。戸惑い、焦り、不安、憤り、医師への不信感。行き慣れた取引先企業に向かう途中、渋谷の街で迷子になるシーンは、最近、東京駅で上越新幹線の乗り場が分からなくなってしまった私自身としても身につまされるものがありました。そして、ラストシーンの描写の美しさ。文学というより病状レポートのようだが、このラストだけでもこの本を読む価値があると言っている文芸評論家(小川榮太郎)がいますが、まさにその通り。
しかし、読み終えてもっとも困惑したのは、最後の最後まで、読んだ覚えがまったくなかったことです。本の中身はフィクションのようですが、本を読むこちら側はノンフィクションのリアルに重篤な記憶障害。
もの覚えはたしかに悪くなりました。弁護士になりたての頃、お客さまとの打ち合わせでお聞きした内容は、ほぼ完璧に覚えていられたものでした。ミーティングのメモを作成する必要がないくらいに。しかし、40代になった頃から、記憶違いが増え始め、そうするうちに打ち合せで触れられていたかどうかの記憶も怪しくなり、最近は打ち合わせをしたこと自体を覚えていないということもあります。しかしメモを取らないという習慣だけはしっかり身についてしまっていて、数日経つと、打ち合わせはしたのはいいけど、いったい何が何だったっけということにもなりかねません。
『明日の記憶』の主人公は、会社でのやり取りを片っ端からメモに残していきます。終いには、スーツのポケットが膨大なメモで膨れ上がるようになります。私自身は、もちろんそんなに症状がひどいわけではないのですが、それでも記録を残すことの重要性をヒシヒシと感じることが多くなりました。お客さまとの打合せだけでなく、読んだ本はもとより、新聞やインターネット等で見聞きした件。記録を残さないと、何も残らないのです。
村上春樹の短編小説『眠り』には、主人公(30歳の女性)が、高校時代に読んだ『アンナ・カレーニナ』を再読するシーンがあります。そして、彼女も、本の内容をまったく覚えていません。そして、考えこみます。「それではあの時代に、私が本を読むことで消費した厖大な時間はいったい何だったのだろう?」
日々の記憶を失うということは、生きることの意味を失うに等しいような気もします。だって、どんなに楽しい経験も、すべて忘れてしまえば、何もなかったのと同じことになるのでは?勉強をして得た学歴や資格、仕事をして稼いだ金や手に入れた地位なんてものは別として、そういった何かの手段になるような痕跡の残らないもの、例えば旅行やら読書やら趣味やら恋愛やら、それらを楽しんだり頑張ったり苦しんだりした感覚やら感情やら何やらは、後になって思い出すことができないなら、それは初めから何もしなかったのと同じことになるのでしょうか。ただそうは言っても、日々のできごとを、なんでもかんでも覚えていられるわけもないわけで、そうすると、できごとを記憶しているか否かと、できごとの意味とは別のものなのでしょうか。それとも、できごとの意味なんて問うのが、もともとナンセンスなのでしょうか。
と、答の出るわけのない問題についてあれこれ考えを巡らせるより、とりあえず先ほどの打ち合わせのメモをしっかりと残しておくことにしたいと思います。