弁護士 宮本 督
エッセイ:to be a Rock and not to Roll
柔らかい個人主義の誕生
10年くらい、趣味で続けていたマラソンからは、静かに引退しつつあります。その話は、いずれまたするとして、マラソンに代わる新たな試みが必要ということで、ここ数カ月、筋トレに凝っています。ジムにも行き始めましたが、それとは別に、ほぼ毎朝、10分か15分程度、自宅でヨガマットを敷いて、あれやこれやと体を動かしています。
狭い部屋で寝そべると、直ぐそこに書棚があります。普段、書棚の下の方の段はあまり目に入らないものですが、床から見上げると、存在をすっかり忘れていた本に気付かされ、引っ張り出して読むようになりました。多分、私が高校生の頃(86年から)か、浪人生の頃(89年)か、大学生の頃(90年から)に買った古い古い本たち。その多くは文庫本です。購入した頃に一読し、その後、おそらく一度も読み返すことはなかったものが大半です。何回か引っ越しを繰り返す中で、本は、だいぶ処分したのですが、それでも、今日まで、何故か捨てられずに残されていた本たちです。
私は、子供のころから、読書好き(というか活字中毒)で、時間があれば(なくても)、本を読んで過ごしていました。その多くは小説でしたが、高校生くらいからは、思想とか哲学とか歴史とかの本にも手を出すようになり、大人になるにつれ、そういった小説以外の本の割合が徐々に増えていきました。自我の目覚めとかの時期だったのでしょうか。ただ、大学3年生の頃からは司法試験の勉強を始めることになってしまい、それ以後の約3年間、法律書との格闘に時間をとられたため、息抜きの読書はほぼ小説に限られることになりました。合格後、25歳からの、それはそれは暇で不毛だった司法修習の2年間は、読書より、飲み歩きと遊びに呆け、一転、弁護士になった後は、仕事が忙しく、やはりたまの読書はほぼ小説だけという傾向に戻りました。年を重ねると、自分とは何か、世界とは何かなんてことへの関心は失われていきます。実際、そんなことより、日々のことで手いっぱいでした。でも、もうすぐ50歳という時期を迎え、再び、思想とか哲学とかにも興味を持てるようになってきていました。相変わらず、迷ってばかりの未熟者だからでしょうか。
ここのところ読み返しているのは、山崎正和の「柔らかい個人主義の誕生」。文庫本の奥書を見ると、89年10月の第4版。代々木ゼミナールに通っていた頃、船橋の東武デパートの旭屋書店で買ったのかな。それとも、大学に入った後、駒場の生協の本屋で買ったのかな。70年代からの日本社会の変遷を、共同体システムから個人主義社会への移行ととらえつつ、ただ、個人を、孤高を守る存在としてではなく、むしろ多様な他人と触れ合いながら、多様化していく自己を統一する能力として把握するとかなんとか。それが、個人主義の中でも柔らかいものだそうです。旧かな使いの軽い筆致で、論旨はきわめて明快です。何の関係もないはずなのに、その考察が、マイケル・サンデル(日本では、白熱教室のおじさんで有名)らの主張する最新の政治哲学(共同体主義)にも通底していることに驚かされます。
早朝の筋トレを終えたら、ヨガマットに寝そべって、そんな本を読み始めます。柔らかい個人主義よりむしろ、社会から隔絶されて古い本を一人で読み続けるような「硬い個人主義」の方が私の好みに合っているように思うのですが、残念ながら、出勤の時間は直ぐに迫ってきます。顔の見えるいろいろな人達との触れ合いに出かけて、多様化する自己を統一して、そろそろ成熟とかしてみないと。山崎によれば、「成熟」とは、自己の曖昧さと複雑さとを受け入れることだそうです。読書に老眼鏡が必要な年齢になりましたが、精神的な成長には、まだまだ先が長そうです。