弁護士 宮本 督
エッセイ:to be a Rock and not to Roll
なんでも人のせいにする大人たち
街の片隅で法律事務所を開いていると、いろいろなトラブルの相談が舞い込んでくるが、ここ数年、いわゆるクレーマー事案が激増している。
もちろん、イチャモンを付けて金にしようという輩もいて、インターネット等でかじった法律知識を盾に、内容証明郵便とかを送りつけてくるケースも増加傾向にはあるが、ここで取り上げたいのは、そういう金の要求が主目的の当たり屋のような連中ではなく、いわば「真剣な」クレーマーだ。
無理由な賠償請求や、少々のことでの過大な請求であっても、請求を受けた側は「お客様からのお申出」ということでできる限りの対応をしているものだが、その範囲を逸脱してくると、それは「事件」として、法律事務所に持ち込まれることになる。そして当方に法的な責任はまったくないと判断できれば、弁護士から、その旨を文書で通知するのだが、それに対し、弁護士に電話をかけてきてキレて喚いたり、脅迫まがいのことを言ったりする人々が増えている。
弁護士相手にいくら大声を出しても金になるわけがないわけで、大抵は、それと知りながらごね得を狙うタイプではない(そういうのも皆無というわけではないけど)。そういう方々と話しをしていると(多くの場合、話はまったく通じないのだが)、電話口の様子から窺われるのは、失敗や不満足が自らの責任であったり、仕方ないことであったりすることを認めて、受け容れることができない精神状態だ。
私は、心理学者でも精神科医でもないから、その理由や背景事情についての専門的な知見は持ち合わせていないし、弁護士経験だって20年にも満たないので昔との統計的な比較が充分にできるわけでもない。しかしそれにしても、最近、現実の状況や、もっと言えば現実の自分を受け容れることができない大人たちを目にし耳にすることが増えた。彼ら(彼女ら)の中では、理想とするイメージ上の状況と、現実とのギャップが大き過ぎるのかも知れない。理解し難い感覚だが、とっくに大人になったのに、幼稚で自己愛的な万能感を断ち切れておらず、客観的には「残念な」等身大の自分を受け止められないでいるように見受けられる。そして、イメージ通りにコトが進まないことによる不満や不安感を、とりあえずキレて他人を責め立てることによって切り抜けようとしているように思われるのだ。
もちろん、喚かれても叫ばれても、「金の支払」にも「謝罪の要求」にも一切応じられない。応じられるわけがない。弁護士としては、苛立ちながら紋切り型の対応をして、話が通じないと思えば、会話の途中でも電話を叩き切ってしまう。
そして、私は、諦めとともに憤りを感じる。それは、彼らが、単に未成熟なだけではなく、大人になる過程で、あえて成熟を拒否してきたと感じられるからだ。
誰にでも、成熟する機会はあったのだ。自明のことながら、人生では勝ち続けることはできないわけで、失敗や残念な体験を重ねるうちに、次第に、夢や理想やその他モロモロを修正し、縮小し又は諦めもしくは断念して、自らの小ささを受け容れる。逆境や試練に直面した際、その責任を自分でとろうとすることで、自分の身に起きる出来事に対処するための新たな力を身につける。そうするしかないのだ。意識的か無意識のうちにかはともかく、皆がやってきたはずの、そんな当たり前のことを回避し続け、成熟を拒否し続けたまま大人になったような連中の相手をしたり、同情したりするほど暇ではない。
彼らが不幸なのは、結局、彼ら自身のせいに他ならない。
しかし、彼らがそれを理解できる日が来ることは決してないのだろう。
宮本の本棚から
妻子ある50代の投資ファンド運用業者と、難病を患う風俗嬢との恋愛小説。ストーリーは、死の予感の中でやりとりされたメールを軸にゆっくりと進む。この著者の他の作品でもおなじみの、生い立ちにおける親との関わりの人格への影響とか、成功した大人による若い愛人に対するどうしようもない嫉妬心とか、相変わらずの話題が続く。
著者の主眼は、おなじみの糖尿病(Ⅱ型糖尿病といわれる)とはまったく別物のⅠ型糖尿病についての知見を広めたいとの点にあったようで、確かに、その狙いは成功しているのだろう。
テーマは悪くないのだけど、この半分くらいの長さにまとめてもらいたかった。ダラダラと長い。