弁護士 宮本 督
エッセイ:to be a Rock and not to Roll
法廷の真実
依頼する弁護士によって、判決は変わるのかって、ときどき、聞かれる。そんなの、変わるに決まってるなんて、本当のこと言えるわけないけど、ただ、その質問って、判断する方はブレないってことが前提なのかも知れないと思われて、じゃあ、その前提、つまり裁く側の人、って裁判官のことだけど、事件が誰にあたるかによって、判断はブレるのか、判決は変わるのかって、どう思います?裁判官の人間観とか、宗教観とかが問題になる、歴史的な、どデカイ憲法訴訟とか、そんなんじゃなくて、原告と被告との間で金の貸し借りがされたのかとか、被告人って真犯人なのかとか、そういう、いつもの、って言ったら悪いけど、まあまあよくある事件で、判断が裁判官によって変わるのか、ということ。
で、「変わる」が正解。
まあ、そりゃ変わるよね。大体、どうせ、その場にいたわけでもない過去のことについて、何があったかなんて、場合によっては、その時どんな気持ちだったかなんて、判断できると思う方がどうかしてる。いつも正確に判断できるなんて思う人は病院に行くべきだと思うけど、問題にしたのは、正確かどうかじゃないよ、みんな同じような判断をするかどうか。みんな不正確でも、それはそれで判断にブレがないから、まあ、それはそれでいいのかも知れないけど、そうじゃなくて、裁判官によって判決は違うかということ。それで違う。いつもいっつも全然違うとは言わないけど、まあ、いろいろ違う。そもそも、人によって判断が違うから、最高裁判所まで3ラウンドあるわけだし。制度の方も、誰が裁くかによって結論が異なるかも知れないことが当然の前提になってる。
別に、アホな裁判官がいて困るとか、間違った判決を食らって泣けたとか、そんな話しじゃないよ。こっちは一応、プロの端くれなんだから。裁判所つったって、普通の人間社会の一部なわけで、合議事件とか言って大袈裟に3人で話し合ってみても、大抵、議論をリードする誰か一人の意見に残りの人が引っ張られていくのは当たり前。そんなわけで、弁護士って、「正しい」判決なんてそもそも期待できないと知っているけど、それは当然として、それより先、人によって判決が違うことも判っている。まあ、そんなレベルの状況をいろいろと日常業務に活かせばそれでいいと思う。
それはそれでいいとして、ときどき思うことは、この国の人たちって、なんか裁判所で行われていることついて、信頼し過ぎてない?例えば、国会とか、政府とか、市役所とかに比べて、裁判所って、盲目的に信用されてる気がする。でもさ、それって、みんな、ほんとのことを知らないからだよね。まあこの国の実質的な識字率なんて10%程度で、みんなテレビのニュースとかで社会問題とコミットした気になってるだけなんだけど、裁判所って、あんまりテレビで叩かれることがなくって、だから裁判の実態なんて知れ渡ることがなくて、そんなわけで、みんな、法廷では「真実発見」とかが、神々しく行われてるんじゃないかとかって信じちゃってるのかしらん。私、いつも講演とか頼まれると、裁判所は真実を見つけるところじゃなくて、原告と被告とどちらが証拠をたくさんもっているかのコンテストの場だと説明してる。だから、ちゃんと契約書とか作りましょうねって話しなんだけど、こんなこと言うと、みんな「引く」。それで、私を疑いの目で見る。さらに、壇上に哀れみの目線を寄越す。「あらまあ、あの弁護士さんってば、まだ若いのに、世慣れてひねくれちゃって可哀想。よっぽど、裁判で負け続けたんだろう」って感じかな。まあ脱線しちゃったけど、要するに、裁判官って、証拠比べコンテストの審査員で、さらに最初の話しに戻ると、しかも審査員によって勝ち負けの結論が変わるんだと、少なくとも違う判定がされることがあるんだ、ということは、識字率が低いこの国でも、もう少し知れ渡っていてもいいと思うんだけど、改めてそんなこと言ったら、みんな「引く」し、私のこと変な目で見るしね。まあ、私は、別になんと思われてもいいけどさ。
って、なんの話しだったっけ?
もうなんでもいいや。いや、判決ってさ、蓋を開けてびっくりってことも多くって、ほんと怖いから、できるだけ裁判にならないように、それから、裁判になっても適当なところで話を付けちゃうことが、最近のお勧めです。ほんとです。大体、裁判なんて、勝っても負けても、ロクなことないしね。