弁護士 宮本 督
エッセイ:to be a Rock and not to Roll
裁判は麻雀に似ている
その昔、将棋の升田幸三は「人生は将棋に似ている。」と言った。稀代の勝負師のお言葉は、「将棋は人生に似ている」ではない。升田曰く、「どちらも"読み"の深い人が勝機をつかむ。"駒づかい"のうまい人ほど、機縁を活かして大成する。」と。ふーん。
で、裁判も勝負事だが、むしろ将棋より、麻雀に例える方が分かり易い。「裁判は麻雀に似ている。」と。「麻雀は裁判に似ている。」でもいいけど。要するに、配牌が重要。そして不公平。トータルではともかく、一局ごとで見れば、配牌がプレーヤーの腕より重要なことも多い。だって、テンホウだってあり得るんだから。それは極端な例としても、弁護士は、依頼者から、争いになっている事実関係を聞いて、それを裏付ける証拠書類や証人がいるかを確認して、およその有利不利を判断する。もう、この時点で将棋じゃない。それから、相手の手というか相手方の主張や反論を、読んでというか予想して、下りるべきときは潔く下りることを勧める。下りるといっても、負けを最小限にすることを考えるわけだけど。で、勝てる事件(配牌)なら早めに勝ち切る方法を読むことになる。
相手方の手持ち証拠(牌)が判らないことも多い。そうすると、相手方の主張の組立等から、どこまでの証拠を揃えられているかを予想して、こちらの立場も構築し直すこともある。配牌はメチャクチャだったけど、裁判中に相手がミスをしてくれたり、思わぬ証拠をツモってきて逆転することもある。負けの可能性が高いと思っても、一か八かの勝負をすることもある。でも、大抵、ボロ負けの結果になる。要するに、麻雀と同じ。どうして勝ったのか、あるいはどうして負けたのか、いくら振り返ってもよく判らない事件があるのも麻雀と同じ。勝負に大金がかかっているのも、もちろん麻雀と同じ?
そんなわけで、麻雀も裁判もスタートラインが不公平に設定されていて、そこから頭脳勝負が始まる。だから、勝ったときは自分の腕を、負けたときは配牌を、それぞれ原因にすることだってできなくはない。そこは将棋とは大違い。でも、世の中って、少なくとも場面場面を取り上げれば、大体において公平ってことはなくて、そうすると、人生は将棋には似てないのかも知れない。むしろ、麻雀に似ているのかも。
今年の将棋名人戦は、挑戦者の森内俊之が名人の羽生善治を4勝2敗で破って名人位に返り咲いた。昨年の名人戦で一勝もできず羽生さんに名人位を奪われた森内さんが、一年後にリターンマッチを挑み、再び名人位を勝ち取った。この両雄、二人とも1970年生まれで私と同じ年。高レベルな頭脳勝負を対等な条件で続けられる彼らのことは羨ましくもあるが、正直なところ、言い訳のできない状況を強いられることには同情しないではない。だって、勝ったときは自分の腕のお陰と思いたいし、負けたときは配牌(証拠)が悪かったからって言いたいしね。