弁護士 宮本 督
エッセイ:to be a Rock and not to Roll
それでもボクは逃げるべきか
先回のエッセイで、映画「それでもボクはやってない」をとりあげさせてもらって、痴漢に限らず、この国で、冤罪と戦うことの難しさを書いたんだけど、そしたら、4月14日、痴漢について、逆転無罪の最高裁判決が出た。
最高裁のサイトで判決の全文(補足意見や反対意見を含む)が閲覧できる。プロの法曹や、法曹を目指す人達以外のために、二点だけ予備知識を解説しておくと、まず第一に、本来、最高裁は「法律審」といって、事実認定については審理しないことになっているんだけど、例外として、事実問題についても判断することができる場合があるとされている。それから第二点目。最高裁は「事後審」といって、事件を一から判断するのではなくて、高裁判決を対象に、それが正しいかどうかを審理するという建付になっている。
マスコミ報道とかは、この辺がよく分かっていないから、いつものとおり、とんちんかんな馬鹿っぷりを発揮してるけど、5人の裁判官の意見が3対2に割れているのは、まず、この「法律審」であって「事後審」なもんだから、最高裁が、地裁や高裁の事実認定(法律判断ではなく)に、どのような場合に口出しするべきかについての思想の違いがあって、法律の条文を見ると、最高裁は、事後審査によって、高裁の判決の中に、結論「に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認がある」かどうかを判断することになっていて、確かに、この条文だけを読むと、高裁判決が重要な点で明らかに間違っていると判断されるような場合に、初めて最高裁が口を挟めばよいとも読めるけど(反対意見の2人の裁判官は、そう考えてる)、多数意見は、「どっちか分からない」というような場合でも、被告人を無罪にする方向に限っては介入する必要があると考えているわけ(近藤裁判官の補足意見では、その旨が明確に述べられている。)。
まあ、いずれにしても、最高裁の裁判官同士で侃々諤々の議論が交わされたことは、判決書からも窺われて、そんなわけで、今回の判決は、読み物としても大変ハイレベルなものになっているんで、上記の予備知識を踏まえた上で、お暇なときにでも、是非、ご一読下さい。
さて、それはそれとして、私は、前回のエッセイで、痴漢に間違えられたときは、「逃げろ」と書いた。
この最高裁判決で、その状況は変わるのだろうか。
判決文を読むと、冒頭、痴漢事件については慎重な判断がされるべきとされた上で、痴漢事件だけじゃなく、当事者の証言以外に客観的な物証のない(乏しい)事件での事実認定のあり方(証言や、証拠を踏まえての合理的な疑いを超える証明がされているかの判断)にも、大きな一石が投じられていて、判決直後の高揚の中にあっては、「時代が変わる」との予感もある。これまでの裁判実務では、「被害者の供述内容が詳細かつ具体的、迫真的で不自然・不合理な点がない」といった表面的な理由だけで、その信用性が安易に肯定されて、被告人サイドの言い分には、ほとんど耳が貸されることはなかったが、今回の判決では、この点にも鋭い批判が加えられている。
また、今回の判決を受けて、警察庁は、痴漢事件の扱いが多い大都市圏の警察本部の関係部署担当者を集めて、痴漢事件の捜査をめぐる現状について検討する会議を開く方針を決めたそうだ。
しかし、しかし、しかし。
この国の裁判所(を含めた司法システム)を、たやすく信用してはならない。
高裁や地裁の裁判官達の基本的な思考は、彼らが裁判官になって以来、何十年にも渡って、彼らに取り憑いてきたもので、それは容易には変わらない。裁判官は、法務省の手先であって、被告人は起訴されている以上、有罪と推定するし、そうであるにもかかわらず、容疑を否認して争うことそれ自体が、仕事を増やすことで、けしからんことと思っている。それは、彼らが何と言い逃れしようと、骨の髄までしみ込んでいて、しかも、彼らの中には自覚症状がない者も多く、治療も困難だ。
それだけじゃなくて、今回、たまたま無罪になったおじさんも、平成18年4月の件で起訴されているらしいから、3年間、不毛な戦いを続けさせられたことになる。大体、この事件が、最高裁の3つある小法廷のうち、他の小法廷にかかっていたら、無罪になった保証なんてどこにもない。
というわけで、私が痴漢に間違えられたとき、私は、それでも、逃げる。一目散に逃げる。全力で走って逃げる。
皆様においても、お気を付けて。
じゃ。また。